「最近流行ってますよね、LGBTとか」

映画『ミッドナイトスワン』を観ました。草彅剛さんが新宿のニューハーフショークラブで働くトランスジェンダーの凪沙を演じています。

 

原作・脚本も手掛けた内田英治監督はかなり多くの取材を経て制作したそうですが、中でも私が特にリアリティーを感じたのは、彼女が昼間に働くために受けた面接のシーンでした。(セリフはうろ覚えですが、)中年の男性面接官が、彼女に「最近流行ってますよね、LGBTとか」「大変ですよね、僕も講習会とかで勉強したんですよ」などと話しかけるのです。

 

当事者からすれば、世間の流行りに乗ってトランスジェンダーになったわけではないし、それは講習会の机上の勉強などといった次元ではなく、自分の身に起きているリアルでしかないと思います。だからこの面接官はちょっとズレているし、無神経な言葉であることは否めないでしょう。でも悪気があるわけではないし、差別しようとしているわけでもない。講習会にもいちおう出席して、自分の知らないことを学ぶ意思があるわけで、「同性愛が広がれば足立区は滅びる」などと発言をした議員とは違います。むしろ面接官は「自分はLGBTに理解があるほうだ」と思っていることでしょう。私の体感として、最近は足立区議のような人に遭遇することはずいぶん減りましたが、こういう人にはよく出会います。

 

LGBTに理解を示すことが社会のマナーのようになってきていますが、だからといって括って何かひとつの集団のように捉えてしまうと、先ほどの面接官のようなズレた発言につながります。先述の議員は性的少数者はまわりにいないとも言っていましたが、普通に存在する隣人ですし、その一人ひとりがそれぞれ異なる嗜好、個性、考え方を持っています。流行や風潮としてではなく、当事者に向き合うということが差別を解消していく一歩ではないでしょうか。

常識が信仰であるとしたら

村田沙耶香さんという小説家が好きで、よく読んでいます。芥川賞を受賞した『コンビニ人間』が代表作と言われますが、恋愛や結婚、出産をテーマにした著作の方が面白いと思います。とはいってもキラキラした恋愛小説の類ではなく、私たちの常識を根本から問い直すような作品で、自分がいかに常識にとらわれていたか、いつもハッとさせられるのです。

 

『殺人出産』は、殺人が悪ではなくなった未来の話です。妊娠出産は恋愛と切り分け、人工授精で計画的に産むのが当然となり、偶発的な妊娠が起こらないため世は極端な少子化時代をむかえます(ここまでは想像に難くないと思います)。そこで合理的なシステムとして採用されたのが、「殺人出産」でした。十人子どもを産めばかわりに誰か一人を殺すことができる、もし子どもを産まずに人を殺してしまったら「一生子どもを産み続ける」刑に処される。殺される人は社会のために亡くなったということで感謝され、盛大に送り出されます。

 

多くの人は「気持ち悪い」「怖い」と感じると思うのですが、常識が変わってしまった社会から見れば、こちらの常識の方が気持ち悪いし、怖いでしょう。常識はただの信仰に過ぎないし、特定の常識を信じ込むことはどんな内容であろうと狂気なのだ、というメッセージが込められています。

 

最近では、人は時代に応じて変わらなくてはいけない、ということが語られます。常識がアップデートされていない人は時代遅れとしてばかにされてしまいます。でも、その新しい常識が絶対に正しいとは限りません。自分の信じる常識はただの信仰にすぎないと思えば、自分とは違う常識を持つ人にも優しく接することができるし、わかりあえるのではないでしょうか。

「私たちが何のために生きているか、誰にわかるっていうの?」

新型コロナウイルス感染症の影響で、多くのイベントが自粛されています。私も趣味の演劇が公演中止になり、仕方ないとはいえ、残念でした。

 

今月初めには劇作家・演出家の野田秀樹さんが「公演中止で本当に良いのか」という意見書を出しました。「感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべき」とし、「ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは『演劇の死』を意味しかねません」と訴えたものです。

 

野田秀樹さんは昨年、ロックバンドQueenの音楽を使って『Q』という舞台を作っています。戦時下および戦後のシベリア抑留における「全体主義」を批判する物語でした。パンフレットの巻頭言にも「大量の人間が、ひとくくりで、同じ『運命』を背負わされるとき、そこでは、一人一人の『人生』が失われている」とあります。

 

この状況で公演をやるべきとも言えませんが、公的補償もないまま一律中止とするのがいいのか、演劇が不要不急だとして何が必要火急なのか、いち演劇ファンとしてモヤモヤしてしまうところです。

 

ちなみに意見書の終わりに引用された「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません」との言葉は、Queenの名曲『The Show Must Go On』を意識したものだと思います。フレディが亡くなる直前の曲です。「Does anybody know what we are living for?」というフレーズが最高ですね。訳は「私たちが何のために生きているか、誰にわかるっていうの?(誰にもわからないよね)」という感じでしょうか。

 

パンデミックは思っていたより長引きそうです。先が見えない不安な状況ではありますが、人生に必要なものを見失わずに生きていきたいところです。 

色んな大人がいてもいい

たまに、近所の子ども向けの造形教室の手伝いをしています。スタッフは、みんな心優しく、仲良しです。ただ、気が利くとか、テキパキしているかとか、そのあたりはもちろん、人によって違います。そんな中で、先日、印象的な会話がありました。

たしか、何度か来てもらったスタッフについて、あの子はぼんやりしてるからね、だからまあ、よっぽど人が足りないときにだけ呼べばいいんじゃない、という話になったときだったと思います。教室を主宰している先生が、「いや、そういう人も大事。むしろ、大人にも色んな人がいることを知らしめなくちゃ」と言ったのでした。

 

なるほど、と膝を打ちます。ぼんやりしている人は、ぼんやりしているだけで、「そういう大人もいるのだ」と子どもに知らしめることができます。それは案外大事な役割ではないでしょうか。

 

今の子どもたちは、核家族化等により、おそらく昔より変な大人と接する機会は減っているでしょうが、実際には今も、変な大人、ぼんやりした大人、何もしない大人が、ちゃんと生身の体を持って生きています。そんなの怠けてるじゃん、と思う子どももいるでしょう。私もどんくさいので、子どもに「ちゃんとやれ」などと言われることがあります。でも、彼らがいつか人生に躓いたとき、誰かに求められた大人像に近づけなくて焦ったとき、かつて生身のぼんやりした大人がなんとなくそこにいた(そして、いることを認められていた)のを見ていた経験は、少なからず意味があるのではないかと思うのです。

 

何かができなくても、気が利かなくても、世界にいていい。当たり前のことです。人手不足の折、企業でも、色んな人がその特性に応じて働き続けられる仕組みになっていくでしょう。だから大丈夫、こんな大人でも楽しいよ、ということを、大人みんなで身をもって知らしめていけたらいいなあ、と思いました。

哲学は非実用的か

お正月休みは『子どものための哲学対話』(永井均著・講談社文庫)を読んでいました。「人間は何のために生きているのか?」「友だちは必要か?」といった疑問について中学二年生の少年と猫が対話する本で、文庫版は2009年発売ながらAmazon「哲学」カテゴリの売れ筋ランキングで今も上位に入っているロングセラーです。

 

哲学というと、非実用的なもののように言われます。たしかに、たったいま心臓発作で苦しむ人の体をどうにか治そうとなると医学の方が実用的でしょうし、たったいま外国でトイレを探している人にとっては語学の方が実用的でしょう。哲学は、そうした即効対処的な学問ではありません。

 

「哲学は学べない。学べるのは哲学することだけである」というのはドイツの哲学者、イマヌエル・カントの言葉です。つまり答えを教えてもらう学問ではなく、自分で考える学問だということで、そこが宗教と大きく違うところです。

 

最近、新宗教の信者数は減少傾向ですが、インターネットでは神的人気のインフルエンサーたちが人生に悩む人に「簡単な答え」を与えてお金を徴収する「信者ビジネス」が流行しており、カルト宗教的なものは社会からなくなっていません。

 

生きることは大変です。選ぶことは怖いです。あらゆることが自動化によって便利になり、人生は延び、性別等による既成の役割からも解放されつつある今、「どう生きるか」に人々が悩むのは当然だと思います。簡単な答えなんて決して存在しないけれど、自分の哲学があれば、安直な神話を信じなくても生きていける、そういう意味では今こそ哲学が実用として救いになると思います。

 

最近の大学では、哲学や文学などの学部を再編・縮小するのが時流になっているようですが、私としては、むしろそれらの学問こそ現代的で実用的であり、拡充されていいのではないかと考えるところです。

問題は今日の雨、傘がない

「テレビでは我が国の将来の問題を

誰かが深刻な顔をしてしゃべってる

だけども問題は今日の雨 傘がない

 

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ」

 

 今朝、傘がありませんでした。昨日どこかに置いてきてしまったのだと思います。井上陽水の曲『傘がない』を思い出しました。参議院議員選挙の投開票が終わったばかりで、テレビでは改憲の可否を報じていました。誰かが深刻な顔をして。

 

 学生の頃に「『戦争』について自由に書く」という課題を提出すると、教授から「『傘がない』的な文章だ」と講評されました。社会で起こっている事がらに一定の距離を取って、自分の目の前の問題を事細かに書いているということでした。

 

 映画『君の名は』が大ヒットし、現在『天気の子』も公開中の新海誠監督の作品は、「セカイ系」と言われます。セカイ系とは、世界がどんなに大変なことになっていても、僕と君とその周辺のみで展開する物語のこと(諸説あり)。『新世紀エヴァンゲリオン』などもそうで、バブル崩壊後に多くのセカイ系アニメがヒットしてきました。人のことなんてどうでもいい、自分のことだけを考えるといった平成の時代の人々の特徴が反映されていると言われています。

 

 だから、たぶん私だけじゃないんです。今朝、『傘がない』を口ずさんで外に出て、会社に行き、先週までの仕事の続きを始めた人がたくさんいるでしょう。選挙がどうなったとしてもどうせ今までどおりの明日が来る。分かります。でも、気づいた頃には傘の値段も上がっているでしょう。それが政治なんですよね。問題は今日の雨、傘がない、傘が高い。傘がないだけで済まなくなる前に、昨日投票に行きました。

私の結婚、あなたの結婚

20代も終わりに向かうなか、同世代の友人の結婚式に招待してもらうことが増えてきました。特に5月、6月は結婚式シーズン。私も3年前の5月に結婚しました。この文章を書いている今日は結婚記念日です。

 

結婚はめでたい。

私もたくさんの人に祝ってもらい、本当に嬉しかった思い出があります。公に「この人と生きていきます」と表明することも幸せなことでした。今も毎晩その人が一日を終えていく様子を見ています。幸せです。

 

ただ、無条件に「結婚=幸せ」でしょうか。

結婚することを単に「幸せになる」と言い換える人があまりに多いせいか、「結婚すれば幸せになれる」と思いこむ人も多くいます。

「結婚すれば仕事が辞められる」「結婚すればもう恋愛しなくていい」と、悩みからの救済を求めて信仰を強めている人もいます。でもたぶん、結婚はそんなに万能薬ではありません。実体として、それは約束であり、生活です。

私の結婚、あなたの結婚、それぞれの結婚。楽しみも悩みも個別的なものです。

 

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」。

これは2017年のゼクシィのコピーです。

結婚の捉え方が過渡期にあるからこそ、話題になりました。

ただ、「結婚しなくても幸せになれる時代」と言い切るのは、少し無責任な気もします。人の意識は少しずつ変わっているにせよ、国の社会保険や税金制度はまだほとんどが結婚前提でつくられているし、女性の就職や賃金の状況はまだ厳しく(特に地方)、パートナーのいない未婚女性が出産するのも制度上の壁は多い。

 

「私」は、「あなた」と、どう生きたいか。

「あなた」は、「私」と、どう生きたいか。

結婚しなくても幸せになれるとは言い切れないし、結婚すれば幸せになれるとも言えないけれど、それでも。