色んな大人がいてもいい

たまに、近所の子ども向けの造形教室の手伝いをしています。スタッフは、みんな心優しく、仲良しです。ただ、気が利くとか、テキパキしているかとか、そのあたりはもちろん、人によって違います。そんな中で、先日、印象的な会話がありました。

たしか、何度か来てもらったスタッフについて、あの子はぼんやりしてるからね、だからまあ、よっぽど人が足りないときにだけ呼べばいいんじゃない、という話になったときだったと思います。教室を主宰している先生が、「いや、そういう人も大事。むしろ、大人にも色んな人がいることを知らしめなくちゃ」と言ったのでした。

 

なるほど、と膝を打ちます。ぼんやりしている人は、ぼんやりしているだけで、「そういう大人もいるのだ」と子どもに知らしめることができます。それは案外大事な役割ではないでしょうか。

 

今の子どもたちは、核家族化等により、おそらく昔より変な大人と接する機会は減っているでしょうが、実際には今も、変な大人、ぼんやりした大人、何もしない大人が、ちゃんと生身の体を持って生きています。そんなの怠けてるじゃん、と思う子どももいるでしょう。私もどんくさいので、子どもに「ちゃんとやれ」などと言われることがあります。でも、彼らがいつか人生に躓いたとき、誰かに求められた大人像に近づけなくて焦ったとき、かつて生身のぼんやりした大人がなんとなくそこにいた(そして、いることを認められていた)のを見ていた経験は、少なからず意味があるのではないかと思うのです。

 

何かができなくても、気が利かなくても、世界にいていい。当たり前のことです。人手不足の折、企業でも、色んな人がその特性に応じて働き続けられる仕組みになっていくでしょう。だから大丈夫、こんな大人でも楽しいよ、ということを、大人みんなで身をもって知らしめていけたらいいなあ、と思いました。