〇〇世代という思考停止

団塊の世代しらけ世代、バブル世代、氷河期世代プレッシャー世代ゆとり世代、さとり世代…。

「〇〇世代なんですね」と言ったり言われたりすることはありますが、それで良い気持ちになる人は少ない微妙な言葉です。

 

私はゆとり世代ど真ん中の年齢です。

ゆとり教育の方針で学習指導要領が変わり、小学校生活の途中から土曜日が休みになりました。

他の世代と比べると国語や算数を習った時間がずいぶんと少ないようです。

当時の私としては学校や勉強が嫌いではなかったので別にどちらでも良かったのですが、空いた土曜日は漫画や本を読んで過ごしていました。

 

その後、私たちが大学生になった頃には、学力低下を主な理由に「ゆとり教育は間違いだった」という認識が主流となり、「脱ゆとり教育」の方針がとられるようになりました。

教育の名前をそのまま世代の名前にされているので、教育の間違いはそのまま世代の間違いのように聞こえてしまいます。

低学力に限らずマナー違反なども「これだからゆとりは」を合言葉に非難されるようになりました。

 

教育とは何でしょうか。

ゆとり教育を行ったのは当時の大人世代のはずなのに、なぜ教育を批判せずに教育を受けた子どもを批判するのでしょうか。

なぜ目の前のマナー違反を教育せずに世代をまとめて理解不能なものとして扱うのでしょうか。

安易な世代批判に思考停止を感じてしまいます。

 

先日成人式をむかえた人々は「ミレニアル世代」「Z世代」などと呼ばれるそうです。

幼少期からインターネットに馴染みが深く、情報収集や処理に優れた世代ということです。

 

教育には、学校教育と家庭教育の他に社会教育という概念があります。

社会が人を育て、人が社会を育てる。

会社や組織でも同じだと思います。

新しく大人になった人たちを「最近の若者はスマホばかりいじっていて…」と安易に非難することなく、お互いに育ちあえる社会になることを願います

 

寂しさより語るべきことはないか

セクハラ、パワハラモラハラ、マタハラ…。

ハラスメントという概念は他の様々な言葉と合体して広まり、今や誰の口からも語られるようになりました。

セクハラ被害を告発する「#Me too」運動の広がりにより、ハラスメントは当事者間や組織内だけでなく世界中に共有されうるものと認識されました。

最近では、厳しい指導が当然とされていたスポーツ界でも続々と語られるようになっています。

 

 

勢いよく広まったものは宿命的に、それについていけずに「寂しい」と言う大人を生むものです。

例えば「最近の若者はスマホばかりで本を読まない、語彙力がなくなって寂しい」「最近の若者は結婚したがらない、恋愛や結婚が面倒とされるのは寂しい」といった調子です。

寂しがるのは個人の自由ですが、これでは問題の表面を撫でているようなものです。

 

 

前述の現象により、近年増えたのが「最近の若者は嫌なことがあるとすぐハラスメントだと言う、昔はこんなことなかったのに寂しい」です。

 

確かに昔はこんなことはなかったかもしれません。

嫌なことも仕方ないと我慢していたかもしれないし、それを踏み台にキャリアアップをしてきた人もいるでしょう。

当事者間での話し合いはあったにしても、社会全体に広まることはなかったかもしれません。

だからハラスメントはなくならなかったとも言えます。

 

 

確かに、中にはハラスメントと言えない告発もあるでしょう。

それでも発言があったこと自体は、発言しやすい組織や社会にむけた前進の一歩なのです。

時代の変化に寂しさを語らず、前進を語る人でありたいと思います。

人生の選択にできるだけ寄り添うということ

「女子は大学卒業後、結婚や出産で医師をやめるケースが多い」として女子を不利にする得点操作が発覚した東京医科大学の入学試験。言うまでもなく多くの企業で同様の理由により女性の採用が控えられていますが、大学受験においても適用されていたことが明らかになりました。

 女性が結婚や出産で仕事をやめる背景には、出産前後の身体的な休業の必要性だけでなく、両立しない(できない)様々な要因がありますが、中でも幅をとるのは仕事に関する問題ではないでしょうか。仕事の忙しさや休みづらいといった働き方の問題のほか、給与が安い・安定していない、非正規や派遣といった賃金や雇用の問題。こうした問題の改善および制度の安定があって初めて、女性は結婚や出産それ自体と向き合うことができるのだと思います。

 この他にも根深く、個人の意思決定にまとわりついてくるのが「女性は早く結婚や出産し家庭に入るべき」といった個別的事情を無視した「べき論」です。東京医科大学の問題は、そもそも医師の働き方の問題であると同時に、女性は結婚や出産で辞めても仕方ないが男性にはその分働かせるという性別役割分業的な決めつけの問題でもあるのではないでしょうか。

 政府は、女性の積極採用や女性管理職登用等の行動計画の作成を企業に求めるなど女性活躍推進に取り組んでいます。確かに性別で差別されずに働くことができる制度設計は必要だと思う一方、「女性も男性同様に働くべき」「女性管理職を増やすべき」と考えを固定してしまうと、結局「べき」と「べき」の表面的なたたかいにしかなりません。一人ひとりの人生の選択肢を豊かにする改革となることに期待します。  

生活うばう美談の影

 天の神様は、毎日化粧もせず機織りに励む娘を不憫に思い、勤勉な牛飼いの青年と結婚させました。しかし、二人は結婚すると、仲が良すぎるあまり働かなくなってしまいます。これに怒った神様は二人を引き離しますが、娘は悲しみに暮れるばかりで働かない。そこで一年に一度だけ会うことを許すと、二人はその日を励みに一生懸命働くようになりました。7月7日はその貴重なデートの日。一般的な七夕の伝説です。


 確かに二人が働かないと洋服が不足し、牛が痩せてしまいます。でも、だからといって、勝手にさせた結婚を引き裂くなんて、神様も自分勝手ですね。結婚は誰かに強制されるものではないし、住む場所も職業も自由であるはずです。


 「一年に一度会えるなんてロマンティック」と抽象的な言葉で所業を美談に仕立て、「一生懸命働けば良いことがある」と教訓を忍ばせる。伝説の中だけなら良いのですが、現世にもはびこっているように思います。例えば「深夜残業続きだったけど君の成長を信じていたから」などと語る上司は、成長という抽象的な言葉で深夜残業を美談に仕立て、さらに働かせようとしていますね。

 生活は知らぬ間に美談に奪われることがあるのです。


 元来、七夕は織姫にちなみ裁縫の上達を願う行事でしたが、今では自分の率直な願いを短冊に託す行事として浸透しています。商店街やスーパーなどで短冊を眺めると、多くは「健康で暮らせますように」「給料が上がりますように」といった願いごと。そうした生きるのに不可欠な願いが伝説や美談の中で終わることなく、現世で叶うよう願います。

なぜ飲み会に行きたくないのか

 春は歓送迎会の季節。「飲み会は強制ですか?残業代つきますか?」若手社員からこんな質問をされて「今時の若者は…」とあきれる方も多いかもしれません。「俺が若い頃は上司に毎日付き合って仕事の話をして、翌朝そのまま仕事に行っていた」と。(ここで「えー!すごいですね」と合いの手。)定番の流れですね。

 

 この30年間で世の中は変わりました。

 

 まず、会社の飲み会の利点として君臨していた「有用な話が聞ける」「出世につながる可能性」が現代では瀕死状態にあります。激動社会において30年前の武勇伝を再三語る上司は歴史の語り部。それも貴重な文化財ですが、知りたいことはインターネット検索が主流です。上司に気に入られ出世につながる可能性は確かにありますが、大企業でも将来安泰とは言えない現代において、その役立ち度は下落しています。

 

 次に、価値観や娯楽の多様化です。新卒入社、結婚、子ども、マイホーム。このような人生が当然だった頃、確かに会社に尽くして飲み会に出て出世する必要があったのでしょう。しかし今では、それより家でユーチューブが見たい人、転職や起業をする人、結婚や出産をしない人も当たり前にいます。

 

 他にも、共働きで家事育児分担のために急な飲み会に対応できない人が増えたこと、バブル時代は奢りや経費だった居酒屋代が自腹となったことなど、若者が会社の飲み会に消極的になった理由は枚挙に暇がありません。

 

 そんな中で飲み会の近代化はあまりにも牛歩ではないでしょうか。お酌、長い説教、セクハラ。若手の頃辛くても我慢したことを新人に継承する伝統芸能の場のようです。本当は、上司の皆さんも無理に誘ったり歴史を語ったりお酒を注がれるまで待ったりしなくていいのです。自由に誘い、飲み、帰り、断れる。何も強制し合わない。そんな飲み会に私は行きたいです。

 

過重労働は感情をうばう

 

働き方改革関連法案の議論が進む中、裁量労働制の拡大が問題となりました。

 

国会では、政府が議論の根拠としてきた調査データに誤りが発覚。けっきょく裁量労働制の拡大は法案から全面削除されました。

 

自由な裁量が保障された裁量労働制に合理性はありますが、これを残業代カットのために拡大すると悲劇になりかねません。 

長時間労働の実態は変わらないにも関わらず、残業代は支給なし、定額で働かせ放題のような状態が危惧されています。

 

「感情の消滅や鈍麻、内面の冷淡さと無関心。」

 アウシュビッツ強制収容所及びその支所での心理学者による手記「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)では、苦痛に満ちた収容所生活での被収容者の心理がこう描かれています。

 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

 

逃れられない強制労働の中では、怒りや苦しみだけでなく仲間への関心や優しささえも感じないようにすることで、人は自分を守るのです。

 

趣味や家族との時間、健康など、過重労働は人から多くを奪います。

その中でも、失ったことに気づきづらく、かつ根源的なものが、感情ではないでしょうか。

 

裁量が与えられず残業代の出ない裁量労働制があるとすれば、自由と対価のない強制収容所に似ています。

 

生きるために感情を失うとしたら、何のために生きるのでしょうか。働くために生きるのではあまりにさみしい。 

目先のコストカットではなく、過重労働の解消を出発点に、一人ひとりが感情豊かに生きることのできるような働き方改革になってほしいと思います。